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江戸開府400年で「四谷怪談」をテーマにした番組を準備している私は、ある日曜日にアマゾンの戸ノ嶋ディレクターと一緒に神田川に沿って東京を歩いた。
神田川は三鷹市の井ノ頭池に源を発し、三鷹市、武蔵野市、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、千代田区、中央区、台東区を通り隅田川へと注ぐ、ほぼ東京の中心部を横断する全長26キロの自然河川である。
私たちは豊島区・高田の面影橋からスタートした。川の両岸には遊歩道が作られ、桜並木が植えられている。神田川沿いに歩くのは二人とも初めてのことで先ず驚いたのはきれいな水流があることだった。よく見ると川にはコイが泳ぎ、数羽のカモが浮かんでいる。案内板によるとドジョウやボラ、ウグイ、ハゼの類も棲息しているらしいから彼らの餌があるということだ。小さな島状になった石の上にカメが四匹たたずんでいるのには思わず笑ってしまった。
もともと江戸市民の上水を供給した神田川も明治以降戦後の高度経済成長時代に至って下水の排水路と化し、悪臭を放つ都内でも有数の汚れた川となった歴史がある。「神田川」といえば南こうせつとかぐや姫だが、その感傷的世界と汚れた川というイメージの取り合わせにどうしても私は違和感を持ったけれど、なるほどいまの神田川は感傷が入り込んでおかしくない川だった。
都市が持つ記憶、というのは面白い。コンクリートで護岸されたとはいえ「水清く流る」現在の神田川は江戸の懐かしささえ覚える風情を再生している。
1時間ほど歩き、江戸橋にさしかかったとき神田川は一変した。
川が真っ黒になった。川幅は広がって目の前に太い黒いベルトがずっと延びている。濁り澱んで流れも見えない。地図の上に強引に真っ黒な線を引いたように風景が急に暴力的になっている。ここからは川の上を高速道路が走って空をふさいでいる。この高速をクルマで通ることはたびたびだが、この下を神田川が流れている意識は私にはほとんどなかったことに気がついた。明治以降の私たちに川からの目線で町を見ようとする姿勢が失われてしまったのかもしれないと思った。
さらに飯田橋まで黒い川を辿って来て、この死んだ様な川を見せつけられた私たちは歩く気力を無くしかけ、気分転換にビールを飲んだ。やけ酒の気分に似ていた。
神田川はここから東へ向きを変え、水道橋、お茶の水、秋葉原、浅草橋へと流れる。その間、黒いベルトがつづく。私たちはショートカットして地下鉄で浅草橋へ行き、いよいよ隅田川に合流するのを見た。
ちょっと感動的だった。隅田川はそれまでの私たちの気分などいとも簡単に呑み込むように堂々と流れていた。ひっきりなしに屋形船が往来し、ねじり鉢巻の船頭さんが胸を張るようにして舟を走らせている。川面には辺りの景色が映り、正面には高層ビル群が立ち上がっている。美しい、とさえ思った。
両国橋はその威風のゆえか、なぜか向こう岸に行きたい気分にさせる。
赤穂47士が本所・吉良邸で討ち入りを果たし高輪・泉岳寺へと、死出の旅に向かって渡ったのもこの両国橋だった。「両国」橋には武蔵国と上総国を結ぶという意味があるが、「この世」と「あの世」の境界に架かる橋だとも江戸の人々は考えていたらしい。
私たちは、両国橋を渡って墨田区へ入った。隅田川沿いの道はホームレスの人たちが軒を連ねている。読書をしたり野球中継のラジオを聞いているホームレスもいて、隅田川が庭とあってなにかのんびりした雰囲気が漂っている。
隅田川はさらに南に下ってやがて東西に流れる小名木川と交わる。小名木川沿いに進むとさすがに人気はなく両岸に工場とマンションが立ち並ぶ。30分ほど歩いてこんどは南北に流れる横十間川と交差する。
横十間川沿いの小さな公園が私たちの終点だった。近くの子供たちの遊ぶ声が聞こえた。そこは江東区扇橋3丁目である。江戸の頃は「隠亡堀」と呼ばれた一帯だった。
ところで、この日私たちが歩いたルートは「四谷怪談」のお岩の死体が戸板に打ちつけられて、雑司ヶ谷四谷から神田川を流れ、隅田川に合流し、小名木川に入り、隠亡堀に流れ着く経路だったのだ。
お岩の亡霊は、いまの東京をどんな思いで見ているのだろう。
(2003年8月) |
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