ドラマがドキュメンタリーに変容していく映画を見た。
マイケル・ウィンターボトム監督の新作『IN THIS WORLD』はアフガン難民の少年がパキスタンのキャンプを脱出してロンドンまで旅をする逃避行の物語である。パキスタンに始まってイラン、トルコ、イタリア、フランス、イギリスと少年は命からがら密航していく。
この映画は劇映画であり主人公のジャマール少年は実名ではあるが配役された役者である。少年は片言の英語ができ、それが各国にいる逃がし屋と電話連絡する唯一のコミュニケーション手段となっている。言葉だけが命綱となっていることが物語の緊張を支えている。

映画のスタイルの出だしはドラマ的で、短いカットを重ねるいわゆるカット割りの世界なのだが、旅が続くうちにドキュメンタリー的、すなわち手持ちカメラによる1シーン1カットを多用する手法に変わっていく。おそらくこのスタイルの変化には、監督と少年との関係の変化があったからだと私は見ながら思った。つまり、監督は当初この映画を劇映画として撮影を始めたが、ジャマール少年のなかでの変化に対応して映画のスタイルを変えていったにちがいない。少年の中でなにかが変わっていった。それが脚本による演技であっても少年にとっては、アフガン難民の生活環境から外の世界に飛び出したことが大きな理由となっただろう。なかでも、イスラムの世界からキリスト教の世界、すなわちヨーロッパの街や人々に接していく旅は彼自身の中で体験化され、設定された役柄と実人生との距離感が失われて同一化し、ジャマールが一人歩きを始めたのではないだろうか。だとすればもはやカット割りの必要はなくなる。こうして考えれば、スタイルの変化は演出家と出演者との関係において自然の成り行きだった。
しかし、映画を見て少し時間がたつと私は別の考え方をするようになった。ウィンターボトムはあらかじめジャマールの変化を見越していた、と。まだ世界を知らないアフガンの少年を長い旅に連れだし異世界であるヨーロッパに放り込んで、その心の変化をつかまえようという企みは最初の時点であったのかもしれない。たぶんこっちの方だと私は思う。初期設定のドラマは仮装にすぎずスタイルの変更は折り込み済みだ。もとより彼にとってはアフガン難民が抱えている状況を訴えることに関心はなく、一人の人間(ジャマール)を特殊な状況に置いたときに起きる心の変化がその後どんな行動に移っていくのか、そこが狙いだった。イタリアに着いた少年が旅費を稼ぐために盗みを働くというシーンを作ることで監督はジャマール本人の変化を促進させようとしたとさえ思われる。
映画のラストはジャマール少年が本当にロンドンで亡命した、という字幕で終わる。その意味ではウィンターボトム監督のねらい通りだったのかもしれない。
冷徹な計算はときに非情に映る。しかし演出という作業はそれから逃れることはできない。
映像の作り手が持つ「凄み」と「こわさ」を考えた映画だった。
※『IN THIS WORLD』11/15〜シャンテシネ他で上映中
(2003年12月) |