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【第20回】テレビドキュメンタリーを読む 倉内 均
 今野勉さんが書いた「テレビの嘘を見破る」(新潮新書)を読んだ。
 1993年、NHKの「奥ヒマラヤ 禁断の国・ムスタン」にやらせがあったとする新聞報道が社会問題に発展、ドキュメンタリーにおける演出はどこまで許されるのか、大きな議論が巻き起こった。この事件は、そもそもドキュメンタリーの演出とは何かという根本的な質問を私たちに投げつけた。
 今野さんはこの質問に答えるべく、事件以来10年、時に歴史的なドキュメンタリー作品にあたり、時に現代のドキュメンタリー映画における演出表現やテレビ番組で多用される再現手法を検証、縦横にドキュメンタリーについての研究を重ねてきた。その作業をまとめたのがこの本である。
 このなかで今野さんはドキュメンタリーの演出方法を二通りに整理して、あらためて読者に問いかけを発している。すなわち、目の前で起こっているありのままの事実を撮影するプロセスのなかで,演出家の発見を伝えるのが正しいドキュメンタリーなのか、それとも、事実の再現をはじめあらゆる手法を駆使して、演出家が発見した真実をメッセージとして伝えるのが本来のドキュメンタリーなのか。今野さんはどちらかに正解を与えることはしていない。そして、手法の問題にとらわれるべきではない、大事なのは演出家が世界と向き合うことだと結論づけている。

 私がこの本で面白かったのは、今野さんの研究作業の道筋のひとつひとつをともに体験しているかのように読むことができた点にある。そういう意味では、まさしく今野さん演出のドキュメンタリー番組を見ている感があった。ここには対象にむきあう今野さんの演出家としての方法が明確に表現されている。つまり、(古今東西のドキュメンタリーという)素材をありのままに、正確に、客観的に、仔細に、ごく自然な成り行きで並べていきながら、最後には発見に満ちたメッセージを浮かび上がらせる。ドキュメンタリーを論じるに今野さん一流のドキュメンタリー手法をもってなす、演出家今野勉の面目躍如たる表現方法に私はまたしても刺激を受けた。
 またしても、と書いたのは今野勉というディレクターは私にとっていつも刺激的な存在だったからだ。今野さんが演出したドラマ「七人の刑事」に刺激され、できるなら今野ディレクターのもとでドラマに携わりたいと製作会社に入社したら、当の今野さんは旅番組や音楽番組を演出していた。ドラマディレクターは旅や音楽も手がけるディレクターでもあった。私が最初に体験したテレビはジャンルを超えるメディアだったのだ。私はテレビというジャンルがあるだけだと考えるようになった。
 今野さんはその4年後に、ふたつのジャンルを衝突させる演出をした。日本のドキュメンタリードラマの誕生である。1975年の「欧州から愛をこめて」は、実在の人物が主人公のドラマでありながら、そこに現代のリポーターが関わっていくという方法を導入した。この番組は単に異ジャンル同士の融合という以上に、ドラマで描かれる過去の時間と現在の時間を交錯させて、ドラマの史実をドキュメンタリーで検証するという、まったく新しいテレビ的表現を獲得した。
 今野勉は、ドキュメンタリーという異物をつかってドラマを解体したといえるし、新しいドラマを創造したともいえる。その後、ドキュメンタリードラマは数多く作られ現在に至っているが、ドキュメンタリーとドラマのふたつのジャンルが一本の番組の中で混在したものが多い。これらは今野演出とは似て非なるものだ。ドキュメンタリーはジャンルではなく方法、それが今野勉のドキュメンタリー認識だった。
 そう考えると、こんどの本での今野さんの結論は明解だ。すなわち、ドキュメンタリーを固定したジャンルとして議論するのではなく、制作者も視聴者ももっと自由に世界にむきあうことが肝心なのだと。

 テレビをジャンルで区別するのはたぶんに便法で、視聴者やスポンサーにとって分かりやすいからである。だからといってドキュメンタリーをジャンルと規定して考える発想は、テレビを貧しくする。ドラマであれ、音楽やスポーツであれ、そこにいる人間を正確に描写するための、ドキュメンタリーはアプローチの方法にすぎない。
 私は「テレビの嘘を見破る」をそう読んだ。

(2004年11月)


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