映画『モンゴル』(4月5日公開)を見た。2月の第80回米アカデミー賞外国語映画賞部門ノミネート作品である。総製作費50億円、ドイツ、ロシア、カザフスタン、モンゴルの4カ国合作という、そのスケールにふさわしい娯楽大作になっている。製作、監督・脚本ともロシア人で、ハリウッドでなくてもハリウッドを超える映画を創るんだという気概を感じた。

テムジン(のちのチンギス・ハーン)の成長をメインのストーリーにして、合戦のモブシーンの迫力やモンゴル大草原の自然の移り変わりを描く映像詩といってよいほどの美しさは、確かにハリウッドに負けず劣らぬ映画になっている。
そして、この映画の最大の魅力は俳優にある。とかく″超娯楽大作″的スケールに埋没しがちな人間表現が多い中で、この映画では俳優たちが光っている。とりわけテムジンを演じる浅野忠信の静謐のうちに深い思いを秘めた演技は見応えがある。彼が表現する繊細さと頼りなさを感じさせるほどの静かさは、これまでなかったヒーロー像をつくり出している。
セルゲイ・ボドロフ監督と浅野忠信が「テムジン」をつくろうとしたとき、新しい(21世紀の)リーダーシップとは何かと考えたに違いない。財力と暴力装置を手にしながら政治力を獲得していく従来型の権力者像ではなく、誇りと家族愛しかないような孤独な男がどのようにして人心を掌握し国を統一していくか、この映画の一番大きなテーマはそこにある。
カギになるシーンがある。諸部族の群雄割拠のなかで合戦に明け暮れるテムジンが敵を打ち破ったあと、馬や家財道具などの戦利品を部下やその家族に分け与えるというシーンだ。それを見た敵の兵が進んでテムジンの部下になるというエピソードが描かれている。ここには富と力の集中による統率ではなく、民主主義的な分配によってのみ統一を獲得するという作り手のメッセージがある。
見終わって、わたしはかつて、「騎馬民族征服説」の江上波夫先生に伺った話を思い出した。戦前、先生がモンゴルの王族のゲルに招かれたとき、家の裏では召使いではなく妃(きさき)みずからお茶の支度をしていたという。その光景を見て先生は騎馬民族社会の実にフラットな人間関係に驚いたというのである。そしてさらに、騎馬民族が他民族を征服するときに軍勢の規模は大きな問題ではなく、武器となるのは「情報」であり、相手の部族社会の頂点にいるボスと交渉し、娘を娶って縁戚関係になることによって「平和的に征服する」のだと先生は言われた。
たしかに、『モンゴル』の冒頭は9歳のテムジンの嫁を対立する他部族に求めるところから始まり、合戦のシーンでは常にテムジンの軍勢は少なく明らかに劣勢である。そして、最大の武器「情報」について具体的に描かれるシーンはなかったが、彼の交渉の流儀は思いを込めた「喉歌」(ホーミー)で表現されている。もしかして、ホーミーを交わすことに互いの情報交換の意味があるのかもしれない。
やがて西は東ヨーロッパ、イラン、アフガニスタン、東は中国、朝鮮半島に至るユーラシア大陸を席巻するモンゴル帝国を築いたテムジンが、「人間的な情報」の力を信じたのは想像に難くない。
(2008年3月)